丸くしてはいけない震災の記憶
12年前、住宅のがれきなどで覆われた地で、赤さび色の鉄骨だけとなった3階建ての建物を下から見上げて、手を合わせました。
東日本大震災で被災した宮城県南三陸町の役場施設「防災対策庁舎」です。発生から3週間後、東京から被災地に向かった私たち記者が、最初に立った場所です。行政防災無線で最後まで津波からの避難を呼びかけた町職員を含む43人がここで犠牲になりました。
そして今年5月、再び被災地に赴任したのを機に訪れました。建物は当時のままです。中に巣を作っているのか、飛び交う鳥のさえずりが響きます。
一帯は復興祈念公園として整備されました。土を高く盛った公園内を通る歩道や丘に対し、建物は窪地にあるように見えます。
下から見上げて、屋上まで津波に襲われたのか、と私が恐怖を覚えた時とは印象が違います。整備前の姿を知らずに見学する人、特に子どもたちにはどう見えているのでしょうか。
建物を遺構として残すかの判断は、震災から20年後まで先送りされています。
今回の転勤で拠点を置く北隣の気仙沼市にも、被災した高校の校舎を残した伝承施設があります。保健室のベッドや車いす、校舎内まで流されてきた車などが間近に見学できます。被災を直視してもらい、次への備えにつなげてもらいたいとの願いからです。
二つの遺構を前に考えさせられました。記憶は時とともにとがった部分が削られ、丸くなりがちです。ただ、教訓として、消してはならないものがあるのではないでしょうか。
朝日新聞気仙沼支局長 山浦 正敬