絶対に手放さない一冊の本
その本を手放すことは絶対にありません。
ハードカバーの表紙を開くと、大きなサインが書かれています。
著者ではなく、取り上げられた人物のものです。イビチャ・オシム氏で、サッカーの元日本代表監督です。同僚と取材後、失礼承知でお願いしました。
会ったのは2005年の年の瀬です。Jリーグ・ジェフ千葉の監督として同年、チームに初タイトルをもたらしたので、千葉県担当の新聞記者として、話を聞くことにしました。
インタビューなどで発する含蓄ある言葉が、サッカー界にとどまらず人々を魅了した名将です。私が取材時の参考にと持参した本も「オシムの言葉」(集英社インターナショナル発行、木村元彦著)でした。
私が引かれたのはオシム氏の言葉や采配だけではありません。ふるさとです。ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボでした。
1984年の冬季五輪開催地ですが、90年代に内戦に襲われ、戦車などに包囲された街は孤立しました。国外にいたオシム氏が、残された妻と再会できたのは2年半後のことでした。
和平合意から2年後、別の取材で現地の盲学校を訪ねた話を伝えました。「親戚が勤めている学校かもしれない」。確認できませんでしたが、内戦について「悲惨だった」と語った言葉が忘れられません。
取材時、日本食は納豆以外は試したと話していました。その後、口にしてみたかはもう聞けません。
オシム氏の悲報が伝えられたのは5月です。享年80歳でした。
朝日新聞さいたま総局長 山浦 正敬